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論文集
 

【平成二十二年度吉田富三賞を受賞して】
  第19回吉田富三賞受賞者 廣橋 説雄氏

(はじめに)
平成二十二年度の栄えある吉田富三賞を「病理診断学と分子細胞科学の融合を基盤としたヒトがんの発生と
病態の解明」という課題で受賞させて頂いたこと深く感激し、心より感謝いたしております。この受賞に至る研
究を育てて下さった日本癌学会の会員の皆様そして直接吉田富三賞への推薦を頂いた東京大学医科学研究
所清木元治所長に、そして日本癌学会の賞等選考委員会や理事会の皆様に厚く御礼申し上げます。
私昭和四十九年に慶應義塾大学医学部を卒業してから今日まで、大学院時代の研修を含め、三十年をこえる
期間一貫して国立がんセンターでがん研究に取り組んで参りました。このたび国立がんセンターの独立行政法
人化と共に国立がんセンターを退職し、新たながん研究への取り組みを開始しようとしている時ですので、吉田
富三賞の受賞はこれまでの国立がんセンターでの研究の集大成を御評価頂いたものと感激ひとしおであり、
又、これからの研究に向けて大きく勇気付けられるものであります。吉田富三先生の御業績に関しましてはこ
の受賞の機会に、ご子息吉田直哉様の「私伝・吉田富三 癌細胞はこう語った」と生誕100年記念にまとめられ
た「日本の科学者 吉田富三」の2冊の御本を再読さて頂きました。Virchowの大著「細胞病理学」の翻訳をさ
れたこと、アゾ色素肝癌の創成と肝発がんの研究、吉田肉腫と腹水肝癌を樹立し、がんの個性を明らかにし、
がん細胞生物学を開拓されたこと、そしてこれら腹水がんをスクリーニング系に活用し、がん化学療法を創成さ
れたことなどです。特に「癌細胞はこう語った」では、吉田富三先生の御業績についてだけでなく、人間性につ
いての名著であり是非お読み頂ければと思います。

(私の研究基盤)
私は、昭和五十年に国立がんセンターの研究所病理部下里幸雄先生の下で研修生として研究を開始致しまし
た。まさに研究の基盤は人体病理学・病理診断学でありました。下里先生からは病理診断学について厳しく御
指導を受けたのに加え「病理診断でもまだまだ解らないことが多い。そこを研究で突破して欲しい。」と激励され
たことを今でも感謝の気持と共に思い起こします。そこで、外科病理で扱う腫瘍組織などのヒト生体試料を活用
した研究が始まったのです。またその時期は、実験動物中央研究所の野村達次先生の御努力により日本に極
めて早い時期にヌードマウスが導入され研究に用いられるようになった時でもありました。細胞融合法を用いた
モノクローナル抗体の作成技術も普及を始めると共に、高感度の免疫組織化学がモノクローナル抗体のスクリ
ーニングに応用できるという好機に恵まれて研究を進めることが出来ました。事実私の初めての研究は、ヒトが
んのヌードマウスへの異種移植であり、移植されたがんが、ヒトがんの臨床病理学的特性を良く保つということ
を示したものでした。移植された乳がんが性ホルモン依存的な腫瘍増殖を示すこと、又移植された肝がんがα
-フェトプロテイン(AFP)や血清蛋白質を作りヌードマウス血清中に検出されることを証明したものでした。ヌード
マウスにヒトがんを移植・増殖させた後に、免疫能の正常な同系マウスからの脾細胞を担がんヌードマウスに
注入し、がんを退縮させた後にハイブリドーマを作成しモノクローナル抗体を作るというユニークな免疫法を開発
し、これにより多くのモノクローナル抗体を取得することができました。現在でも乳がんの血清腫瘍マーカーの一
つとして臨床で使われているNCC-ST-439抗体がその始まりでした。モノクローナル抗体を手始めに、その後
遺伝子解析、遺伝子発現解析そして現在のプロテオミスス解析、ゲノム・エピゲノム解析へと共同研究者が解
析法を拡大し研究を発展させて参りました。

(がんの多様性・多段階発がんと増悪の過程、そしてがんの多発。肝がんの病理学を中心として)
私が病理診断学を学んだ時期はちょうど肝がんの外科切除が始まり、さらに画像診断技術の進歩により小型
の肝がんが発見され切除治療が受けられるようになった時で、私は肝がんの病理学に興味を持ち、症例の検
討・解析を進めました。小型肝がんの肉眼型も単結節型、単結節周囲増殖型、多結節癒合型そして境界不明
瞭型と命名しましたが様々な肉眼型を示し、それが臨床経過と対応すること、そして肝にも他臓器の上皮内が
んあるいは微小浸潤がんに相当する段階のがんがあり早期肝がんと呼ぶことに致しました。まさにがんには個
性があるのです。この早期肝がんの中からより悪性度の高いがんが生じるところは、結節内結節病変として観
察され、早期肝がんが1個の細胞に由来するモノクローナルな病変であり、さらにサブクローンとして悪性度の
高いがんが生じていることはB型肝炎ウィルスの組み込みパターンがクローナルなバンドを示し、さらに早期肝
細胞がん部分と悪性度の高い部分が同一のパターンであることから証明できました。さらにこのように結節内
結節すなわちサブクローンとして悪性化していく時には,がん抑制遺伝子p53やがん遺伝子やβ-カテニンの遺
伝子異常など新たな遺伝子異常を獲得していることが証明できる例もありました。まさに遺伝子異常を蓄積し、
多段階的に悪性度を増していくことを実証する例だと考えます。

(がんの構造異型、浸潤性増殖と転移。Eカドベリン細胞接着系の不活化の関与)
顕微鏡で見たがんの組織像の特徴は、細胞の極性が乱れるなど構造が異常となり、さらに細胞間の接着がゆ
るみ、時には細胞間がバラバラとなり浸潤性に増殖し他臓器にも転移していくことです。私達はこの過程に上
皮細胞間を結びつけている細胞接着分子Eカドヘリンが種々のメカニズムで不活化していること、そしてその不
活化のメカニズムががんの組織像と良く対応していることを見いだしました。例えばがん細胞がバラバラに浸潤
するスキルス胃がんではEカドヘリン遺伝子の突然変異による不活化が多いこと、そして多くの低分化がんでは
Eカドヘリンの遺伝子発現の調節をしている部分のDNAメチル化というエピジェネティックな変化による場合が多
いことなどを見いだしております。
このカドヘリン研究の過程を追ってみたいと思います。この研究もモノクローナル抗体の作成から始まりました。
細胞接着分子が重要であろうと考え、がん細胞間の接着を抑制する、すなわち接着分子に結合し接着能を阻
害する作用のあるモノクローナル抗体をスクリーニングすることとしたのです。この結果シャーレに培養されたが
ん細胞どうしの接着が抗体を加えると約30分程で開く結果が得られたのです。カドヘリンの命名をされ、細胞接
着分子研究の第一人者であられた竹市雅俊先生(当時京都大学)に相談し、検討の結果ヒトのPカドヘリンに対
する抗体であることが解りました。ヒトのPカドヘリンは、上皮細胞やがん細胞に発現しEカドヘリンに良く似た同
じファミリーの蛋白質です。竹市先生の研究室で樹立されたヒトのEカドヘリンに対する抗体も利用させて頂き、
ヒトがんにおけるカドヘリンの本格的な研究が始まりました。これらのカドヘリン分子は細胞膜にあり, Eカドヘリ
ンはEカドヘリンと、PカドヘリンはPカドヘリンとというように同じカドヘリンどうしが結合するカルシウム依存性の
細胞接着分子であり、多細胞生物の成立そして発生における組織形成に重要な役割を果たす分子です。まず
がん細胞が完全にバラバラとなる像を示すスキルス胃がんを対象に解析しました。がん細胞がEカドヘリンを全
く発現していないものだけでなく、本来細胞膜の接着面にあるカドヘリンが細胞質など異常な部位に局在する
例があることが解りました。この理由は遺伝子クローニングと塩基配列の決定によって、さらには国立がんセン
ター研究所で関谷剛男先生や林健志先生らによって開発されたPCR-SSCP法を活用して解明されました。す
なわちスキルス胃がんのがん細胞には高率にEカドヘリン遺伝子に突然変異が起こっていたのです。
後の研究で、Eカドヘリンの突然変異はがん細胞という体細胞に起こっているだけではなく、稀には胚細胞にも
起こり、ニュージーランドのマオリ族の遺伝性びまん性胃がん家系の原因遺伝子となっていることが、Guilford
博士らにより明らかにされ、Eカドヘリンはクラシカルながん抑制遺伝子の一つと理解されるようになりました。ま
さに、病理組織像から学んだ異常所見から研究が始まり、がん抑制遺伝子の同定につながったとも言うことが
できると思います。
これに対し胃がんだけでなく多くの臓器のがんで、がんが低分化になるとEカドヘリンの発現が低下することが
免疫組織化学でがんの病理切片を染色する研究で私達の研究室を含む多くの研究室から報告され、さらに発
現の低下とがん患者さんの予後不良との間に相関があることが報告されています。何故この発現の低下が起
こるのかの一つの解答を与えたのがカドヘリンの遺伝子の発現調節領域を同定し、その部分のCpGメチル化を
解析した研究です。
病理組織像を見ますと、がんは細胞接着だけで無く、色々な所見・組織像で場所によって異なるという多様性
を示します。この様な多様性は遺伝子の突然変異よりは、何か発現調節に関するメカニズムの異常の可能性
が強いのではと考え、当時研究が始ったDNAのCpGメチル化の研究を行なったところ、まさにEカドヘリンの発
現の低下しているがん細胞にEカドヘリン遺伝子の発現調節領域に、CpGメチル化が起こっていること、そしてE
カドヘリンを発現していない培養がん細胞にDNAのCpGメチル化の阻害剤を加えると、Eカドヘリンの発現が部
分的ではありますが誘導されることが解りました。このDNAのCpGメチル化によるがん抑制遺伝子の不活化
の研究としては、極めて早い時期に行なわれた研究であり、P16遺伝子のDNAメチル化による不活化と同じ年
の報告でありました。
最近、がんの浸潤・転移に、発生の過程で重要な上皮間葉転換(EMT)が関与するという研究が多く発表される
ようになり、上皮に発現し間葉系細胞に発現しないEカドヘリンの発現低下も、この上皮間葉転換の現象の一
部と捉える考え方もでてきております。この研究の分野が発展するのを心から期待します。がんは胎児の発生
の仕組みを利用して悪性な性質をしめすことが多いからです。
Eカドヘリンが上皮細胞と上皮細胞を強固に結びつけるには,Eカドヘリンどうしが細胞外で結合するだけで無く、
その細胞内部分がβカテニンそしてαカテニンと呼ばれる別な細胞膜裏打ち蛋白質と結合し、さらに細胞の骨
格を形成するアクチン蛋白質と結びつくことが重要であることが解っています。私達は故月田承一郎先生から
αカテニンの遺伝子の供与を受け、αカテニンに異常があり、その結果細胞接着の破綻したがん細胞も見いだ
しました。Eカドヘリンだけでなく、Eカドヘリンそして裏打ち蛋白からなる細胞接着系が重要であることを細胞の
ミュータントであるがん細胞が教えてくれました。同じ裏打ち蛋白βカテニンについてもβカテニンの異常で細
胞間接着が破綻している例も見いだしましたが、βカテニンにはWntシグナルのメディエーターとして、突然変
異でその蛋白質が分解されなくなり、核内にβカテニン蛋白質が蓄積しWntシグナルを過剰に働かせ、がん遺
伝子として働くという大きな研究の展開が起こりました。私達もがん細胞の核に、βカテニンの蓄積が起こって
いる例があることに極めて早い時期に気付きました。このβカテニンの突然変異によるがん遺伝子としての大
きな役割の発見を受けて、その後、肝がんや子宮体がん等いくつかの腫瘍で突然変異の検索を行ない変異を
検出し報告致しました。

(ディスアドヘリンの発見)
最近このEカドヘリンの不活化に働く新しい膜蚕白質を見いだし、ディスアドヘリンと命名し解析を続けておりま
すので御紹介致します。ディスアドヘリンは分子量5万の小さな膜蛋白質でムチン型の糖鎖が多く付いていま
す。この研究も、がんと反応するモノクローナル抗体の分離から研究が始まりました。がん、特に細胞間接着の
ゆるい所に発現しており、がんでEカドヘリンの発現が低下しているところにディスアドヘリンが発現する傾向が
見られます。ヌ、ディスアドヘリンの発現が高いがんの方が患者さんの予後が不良であるという臨床病理学的
データがございます。このディスアドヘリンを細胞接着を保つがん細胞に遺伝子導入で発現させますと、細胞間
の接着がゆるみ、Eカドヘリンの蛋白質が減少します。ディスアドヘリンの発現が多い程培養細胞の運動性が
高いことが膵がん細胞で観察されました。さらに、ディスアドヘリンを高発現させると、がんの転移能が亢進する
ことが免疫不全マウスへの移植実験、ディスアドヘリンの遺伝子導入をしたヒト膵がん細胞をSCIDマウスの膵
に移植し、肝転移を見る実験で示すことができました。

(がん間質相互作用)
大腸がんの手術標本や組織像を肉眼そして顕微鏡で観察していると気付くことがあります。それはがんの辺縁
がより境界明瞭で圧排性に見えるものと、浸潤部が白くスジ状(Streakと命名)に見える場合があることです。こ
のスジ状の部分の組織像を見ると、がん細胞はしだいに腺管構造が乱れバラバラに浸潤する様に見え、その
がん細胞をとり囲み混じりあう様に活性化した線維芽細胞が増殖しています。この様な像を示す大腸がん症例
は無いものに比べて、肝臓にがんが転移している場合が有意に多いことが解りました。この組織像はまさにが
ん細胞と間質の線維芽細胞がお互いに刺激し合っている像に見えます。いわゆる「がん間質相互作用」の現場
です。大腸がんでがん胞巣がくずれて芽を出し(tumor budding)バラバラに浸潤するがん細胞にはEGFシグナ
ルで発現亢進するLaminin5γ2鎖の発現が明瞭に亢進し、逆にこれらのがん細胞と接する線維芽細胞にはTG
Fβで誘導される平滑筋型アクチンSMAや蛋白質分解糸に働くPGP9・5が高発現しており、がん細胞と間質の
線維芽細胞の間で、増殖因子・サイトカイン等で相互作用をしていることが解ります。このがん間質相互作用の
像はまさに強い浸潤性増殖を表現しているもので、決して大腸がんだけに見られるものでは無く、肺がんでもX
線CTや病理像で肺野に発生した腺がんの中に線維芽細胞の増生する間質に相当する像が見える場合、患者
さんの予後がそれが無い場合に比べて不良であることが解っています。このがんの線維性間質の基礎となる
がん間質相互作用の機構が解明され、それを標的とした治療法が開発されることに多くの期待が集まっている
と思います。
さらに、がん間質の線維芽細胞に関するごく最近の知見について御紹介させて頂きたいと思います。がんの病
理組織像を見ておりますと、線維芽細胞の中にはがん細胞と刺激し合ってがんの浸潤を亢進させるように働く
ものだけでは無く、逆にがん細胞の浸潤性増殖を抑えているものもあるのでは無いかと感じることがあります。
例えば、肝がんが圧排性に増殖をする時,線維性の被膜が良く形成されますが、ここにも線維芽細胞の増殖が
あります。がん細胞を培養した培養ろ液で線維芽細胞に発現誘導された分子をcDNAマイクロアレイで検索し、
その中にリンパ管のマーカーとして知られるポドプラニンを見いだしました。大腸がんのがん間質に、そのポドプ
ラニン陽性の線維芽細胞が多いと、患者さんの予後が有意に良いという結果を得ています。これはがんの浸潤
や転移に対して抑制的に働く線維芽細胞の存在の可能性を示唆する所見では無いかと考えております。

(おわりに)
がんの病理診断学が一人一人のがん患者さんに対する適切な治療方針の決定に役立つ重要な情報を与えて
くれることは言うまでもありません。さらに病理組織像はがん研究の推進に役立つ極めて多くの情報を秘めてい
ると思います。私は肉眼、そして顕微鏡の像から得られた情報を、幸いにも我々が手にすることができたその時
その時の最新の分子細胞科学の技術を応用してがんを理解するのに少しでも貢献してきたことが、今回の吉
田富三賞の受賞につながったものと思います。私達はまだ病理組織像の教えてくれる情報の氷山の一角を見
たに過ぎないと考えております。例えば、がんの病理・細胞診断で最も重要なものは核異型であります。濃染
する核そして粗なクロマチンと表現しますが、この粗なクロマチンが現在進んでいるエピゲノムに関する研究で
どこまで説明できるようになるのでしょうか、今後の研究の発展が楽しみです。
これまでの研究は私を病理学へ導きご指導頂いた下里幸雄先生、そして学問の考え方、研究の進め方、分子
細胞科学の技術をお教え頂いた国立がんセンター研究所の杉村隆先生他多くの先輩の先生方、そして病理と
臨床の間で多くの議論を重ねたがん医療の仲間の皆様、実際に研究を進めて頂いた職員、リサーチレジデント
など多くの研究の仲間の方々と、これらの方々のお力が無ければどの成果も挙がらなかったと心より深く感謝
しております。今回の吉田賞の受賞は多くの共同研究者を代表して私が受賞したものであること,それを深く感
謝していること強調させて頂きます。
最後に、この吉田富三賞の創立に貢献され御支援頂いている財団法人浅川町吉田富三顕彰会にも、我々が
ん研究者を強く応援して頂いていることに心より御礼申し上げ稿を終えることに致します。