≫
top
 
  ≫
論文集
 

吉田直哉先生の逝去を悼む
内田宗寿

 吉田直哉先生の訃報に接し、私は涙が溢れてどうしようもなかった。痛恨の極みである。
 
 私と先生との出会いは、平成二年の夏である。あれから十八年になる。思えば、歳月の速さに驚くばかりであ
る。
 
 私は昭和六十三年の四月、自分の母校である浅川小学校の校長として赴任した。私はよく構内巡視をした。
目的は、校内巡視をして教育の効果を上げるための環境の整備を考えることにあった。
 
 体育館に入った時、放課後だったので、十五人ほどの児童たちがボールを蹴って遊んでいた。私は、体育館
の正面に掲額してある、名誉町民「吉田富三博士」の写真の前に子どもたちを集めて、この写真の人は誰かと
聞くと、子どもたちは一斉に知らないと言った。
 
 私は驚いた。世界的に有名な医学者であり、癌研究の先駆者として尊敬されている、吉田富三博士を知らな
いのでは、浅川町の教育の根幹に欠陥があると思った。そこで私は、町教育長(当時は川崎文雄氏)に相談を
して顕彰方法について考えた。
 
 その結果、博士の写真展を開催しようということになった。そこで私は、直哉先生に、写真展の趣旨を書いて、
御指導をお願いした。
 
 それから日ならずして、直哉さんから懇切丁寧なお手紙と共に博士にかんする写真が送られてきた。
 直哉先生の誠実で温かいお心が込められていた。そしてこのお心は十八年間一貫して変らなかった。
 
 私は直哉先生の御温情は生涯忘れない。
 写真展は成功であった。
 
 町内の小中学校の児童、生徒は勿論、老若男女の参観者も多くその数千人を超えた。中には博士の遺影の
前で合掌している老女もいた。私は今なお博士は故郷に生きておられると感慨を深くした。
 
 直哉先生は、NHKのディレクターとして大きな仕事をされた。大河ドラマの「太閤記」「源義経」「樅の木は残っ
た」大河ドラマの創始者と言ってもよい。その他にも「未来への遺産」「二十一世紀は警告する」「明治百年」「明
治という国家」などの他多数。昭和四十四年芸術選奨文部大臣賞を受賞。
 
 著書も多く、私の手元にあるものでも十五冊もある。
 
 文章は、知性に富、温かい愛があり、読後感は爽やかであり、人間の生き方を教えてくれるものが多い。特
に、「私伝癌細胞はこう語った」は、私たちの吉田富三記念館の建設に合わせてお書き頂いたもので、父吉田富
三博士の人となりが素晴らしい文章で表現されている名著ある。
 
 最後に、父吉田富三博士の詩を挙げて、人間の運命と言うものを考えてみたい。

      死

  父が死んだ

  父の方からみれば

  私が消え、私が死んだのだ

  母のときも同じだ

  母からみれば

  私が死んだのだ

  たくさんの友人も知人も

  死んだり

  再開のときなく別れたり

  彼らからみて

  私は何度か

  数限りなく

  死んでいる

  
吉田直哉先生の逝去に心から哀悼の心を捧げる。