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癌研究の先駆者
 



吉田肉腫の発見
昭和18年(1943年)6月 長崎大学で、吉田肉腫が発見されました。肝発がん実験中のシロネズミ(ラット)のお腹が大きくなり開いてみると白い液体がたまっていた。顕微鏡で見てみるとがん細胞が一杯だった、これは面白い、役に立ちそうだと先生は、その液体を注射針とり、次のねずみのお腹に打ってみた。まもなくそのネズミのお腹がふくれて液体がたまってきた。顕微鏡でみると同じがん細胞がたくさん殖えている。がん細胞は一個一個バラバラに液体の中に浮いて殖えている。細胞分裂も旺盛だ。移植に成功したのである。

先生と教室員は、がん細胞の形態や染色体を詳しく研究し始めた。また、薬物や色素ががん細胞に障害を与えることに気づかれ化学療法の研究を開始された。同年、吉田先生は長崎から仙台に転任された。がんを持ったネズミを東京、仙台に無事に移すことに先生がどんなに苦心されたかは吉田直哉さんの本に詳しく記されている。いつ思い出しても感激するお話である。
 
吉田先生は、長崎系腹水肉腫の名前を使っておられたが、昭和22年の日本病理学会宿題報告でご発表の時、会長の木下良順先生が、吉田先生の名をとって吉田肉腫と呼ぶことを提案、満場一致で賛成され、以来、吉田肉腫と呼ばれて世界の中にその名が広がった。

吉田肉腫の教えたもの
吉田先生と教室員は仙台の東北大学で、また、東京の佐々木研究所で吉田肉腫の研究に励まれて、多くの優れた成果をあげられた。これらをまとめてみると次の二つになると思います。

一つは、がん細胞生物学という新しい学問の誕生であり、もう一つは、がん化学療法の誕生であります。それまでのがん研究はがん組織というがんの塊を用いた研究でした。吉田肉腫の発見によって、がんの研究が細胞単位で研究することが可能になりました。細胞分裂や染色体の解析、一粒移植や細胞培養など、がん細胞とはどういうものかを細胞単位で研究する新しい学問、細胞生物学が誕生したのです。吉田肉腫の細胞分裂を顕微鏡映画でとって、目の前でスクリーン一杯にがん細胞が二つに分裂するダイナミックな瞬間に、不可思議ともいえる細胞の美しさに人々は驚いたものでした。そして、映画細胞学(シネサイトロジー)という言葉さえ生まれたのです。

第二のがん化学療法ですが、それまでは、がん治療は外科による手術と放射線照射の二つのみでした。がんに効く薬を確かめる方法がなかったのです。吉田肉腫の発見はそれを可能にしました。ある薬物をある量与えると吉田肉腫は、一定の変化、障害を受ける、といった具合に、薬物の効果を客観的に測定することが可能になったのです。このようにしてナイトロミンという日本最初のがん化学療法剤が開発されました。これを契機に化学療法の進化は素晴らしく、外科、放射線に続く第3の柱としてがん治療に欠くことのできないものとなっています。

吉田肉腫の起源
吉田肉腫の起源はどこか、ルーツは何かとなるといろいろな説がありました。腹腔の単球とする説、腹膜表面の中皮とする説、肝のクッパー細胞説などで、吉田先生も初めは単球かクッパーかと迷っておられたようですが、その後の腹水肝癌や吉田肉腫変異株(LY)の研究によって肝癌由来であろうということに落ち着いておりました。

平成5年(1992年)に、吉田肉腫やLYの性質を現在の新しい学問的方法を用いて研究してみることを思い立ち、癌研の実験病理部の樋野興夫博士が実際にやってくれました。
その結果は、吉田肉腫はリンパ球のT細胞の特徴を持つということで、これまでの定説の性格に新しい光が与えられたと申してよいでしょう。平成6年暮れの27日、かつて若き日、吉田肉腫や腹水肝癌に情熱を燃やした佐藤(春)、井坂、杉村の諸先生を初め、オールドソールジャー十数人が癌研の化学療法センターに集まり、その昔にそれぞれが経験し、考えたことを話し合い、ヤングソールジャーの新しい研究結果を聞き、吉田肉腫の起源について討論をしました。
吉田肉腫はネズミからネズミへと50年の長い間植え継いできたので、その間、いろいろと変わることもあるだろうから、T細胞の特徴を示すからといってすぐT細胞が吉田肉腫のルーツと断言はできないだろうということになりました。