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論文集
 

平成27年度吉田富三賞を受賞して

がん研究会 がん研究所 所長 野田

■はじめに

 このたび、はからずも日本癌学会の第24回吉田富三賞を受賞する栄誉に浴しました。須藤一夫町長を始めとする浅川町の方々、そして、宮園浩平理事長を始めとする日本癌学会役員の先生方には、こころからの御礼を申し上げます。昭和57年の入会以来、長い時間、日本癌学会とともに歩んできましたが、今回の受賞の知らせを頂き、改めて、杉村隆先生、菅野晴夫先生に始まる、これまでに吉田富三賞を受賞された先生方の素晴らしい研究成果を思い起こしました。今回、自分が、その末席に加えて頂くこととなり、大変に感激している次第です。まことにありがとうございました。また今回はこの受賞を記念して、吉田富三記念館だよりに自らの研究とこれまでの来し方をご紹介する機会を頂きました。本文では、去る平成27年10月に名古屋で開催されました第74回学術総会における吉田賞受賞記念講演の内容を簡単にまとめさせて頂き、さらに、吉田富三先生と私との繋がりに関して、少しご紹介させて頂きたいと思います。

 

■がんは遺伝子病である

 さて、現在では、がん患者さんのみならず、中学生・高校生を始めとする多くの市民が、「がんはゲノムの異常による遺伝子病である」ことを良く理解されています。さらに、このがんを治療するためには、「異常になった遺伝子の産物を標的とした抗がん剤(分子標的薬)」が大変に有効であることも、良く知られた事実となっています。こうしたがんの発生と進展の分子メカニズムが明らかになったのは、がん研究の成果の長い間の積み重ねによるものであり、その間、多くの日本人研究者が、その成果創出に貢献して来ました。科学的ながん研究が始まったのは、20世紀初頭であると言われています。今から約100年前、山極勝三郎先生らがタールの頻回屠擦により、ウサギの耳に扁平上皮がんの発生を誘導した実験は、世界で初めての「人工発がんの成功」として大変に有名ですが、その後、吉田富三先生も、佐々木隆興先生のもとで、世界に先駆けて、発がん物質(アゾ色素)の経口投与により、ラットに肝がんの発生を誘導に成功されています。そして第2次世界大戦後、がんの研究は試験管内の培養がん細胞を用いた研究が主流となって行きますが、この流れにおいても吉田富三先生は有名な吉田肉腫を確立され、世界的に大きな役割を果たされました。その後、発がんレトロウイルスが持つがん遺伝子が、実は我々のゲノムが持つ「内なるがん遺伝子」に由来することが明らかとなり、がん研究は、いよいよがん遺伝子やがん抑制遺伝子といった、遺伝子研究の時代を迎えることになります。

 

■医学部を卒業し米国で分子生物学を学ぶ

 わたしは、1980年、まさにがん研究ががん遺伝子研究の時代を迎えた時期に東北大学医学部を卒業しました。その後、外科系の大学院に進学し、当時、既に学長であった細菌学教室の石田名香雄教授の研究室で博士課程の研究を行いました。この大学院時代、世界ではヒトがんにおけるRASがん遺伝子の活性化が、ワインバーグやウィーグラーの研究室から報告され、まさにがん遺伝子研究ががん研究の中心となっていました。そして、世界中の優秀な研究者が、がん抑制遺伝子の同定にしのぎを削っている状況でした。私は未だ黎明期のがん免疫の研究で博士号を取得し、直ちに米国国立癌研究所(NCI)の伊藤嘉明先生の研究室にポストドクとして留学致しました。伊藤嘉明先生は、いまも現役であり、シンガポールで研究室を主催して胃がんの研究を展開しておられますが、当時、すでにDNAウイルスの一つであるポリオーマウイルスによる発がん研究の第一人者として世界的に知られていました。わたしは何も出来ないポストドクとして、伊藤先生に一から分子生物学の考え方と手技を学ばせて頂きました。その後、伊藤先生が京都大学のウイルス研究所で研究室を立ち上げられることとなった時にも、助手として一緒に帰国致しました。京大ウイルス研においては、ポリオーマウイルスと同じDNAウイルスであり、当時、子宮頚がん発症への関与が疑われていたヒトパピローマウイルス(HPV)を研究対象として、日本人の子宮頚がんで高率に検出される新規ヒトHPV(HPV42b)の単離・同定に成功し、さらに、HPVE7遺伝子にはがん遺伝子様の機能があることを発見するなど、大変に充実した研究生活を送ることが出来ました。しかし、やはり、発がんという生命現象はあくまで生体内での出来事であり、それまでの培養細胞を用いた解析を中心とした研究には限界があると感じるようになりました。そのため私は、個体モデルを用いた発がん研究を志すようになり、ボストンにあるMITホワイトヘッド研究所のルドルフ・イエーニッシュ教授のもとでマウス遺伝学を学ぶために、再び米国へと戻りました。

 

■ジーンターゲティングとの出会い

 様々な方法で生物のゲノムに変異を導入し、興味深い表現型を示す変異生物を樹立して、その交配等により原因遺伝子を同定する一連の手法を順遺伝学(フォワードジェネティクス)と呼びますが、当時も、今も、マウスは順遺伝を行うことが可能な唯一のほ乳類です。わたしはマウスを用いた順遺伝学で発がんモデルマウスを作製し、その原因遺伝子を同定することにより、がん抑制遺伝子の同定を同定してやろうと考えて、イエーニッシュ研究室を選びました。しかし、マウス順遺伝学のメッカであるはずのイエーニッシュ研究室に、客員研究員として参加してみると、多くのポストドクが、当時、世界中で誰も成功していないジーンターゲティング法の確立に夢中になっており、特定の遺伝子を標的とした変異マウスの作製を試みていました。いまでこそ当たり前のジーンターゲティングですが、この2万数千種の遺伝子の中の、たった一つの遺伝子だけを狙って不活化することのできるジーンターゲティング法は、当時は夢のような技術でした。そしてイエーニッシュ研究室は、私の参加した1988年に、世界に先駆けてジーンターゲティングを成功させた幾つかの研究室の一つとなりました。その成功を傍で見ていた私は、この手法こそ、個体内での遺伝子解析が必要とされているがん研究にとって最適の技術であると確信し、その後のイエーニッシュ研での3年間、ジーンターゲティングを用いた研究に没頭しました。

 

■癌研究所で研究室を立ち上げる

 そして私は、当時の菅野晴夫所長に招聘されて、1991年に()癌研究会癌研究所の細胞生物部長に着任しました。もちろん私に期待されていたのは、当時、日本ではまだ確立されていなかったジーンターゲティング技術を用いて、個体レベルでのがん研究を推進することでした。しかし、当時、研究所6階にあった動物室は、医学・生物学の実験に求められるSPF(Specific Pathogen Free)レベルの清浄度の施設とはなっておらず、かと言って、その改修工事の費用は目の玉が飛び出るほど高いという状況でした。そのため、まず新たに研究室に加わったばかりの研究員や研究助手が総出で既存施設のクリーン化を行ない、そうした上で、いよいよノックアウトマウスの作製を開始しました。当時、がん抑制遺伝子はp53遺伝子とRb遺伝子以外には単離されておらず、これらの遺伝子のジーンターゲティングはホワイトヘッド研究所の仲間たちがすでに行ない、その成果も得られつつあったため、まず、私は、がん遺伝子と考えられる各種遺伝子のジーンターゲティングに着手しました。当時、既に数多くのがん遺伝子が、ヒトのがんで活性化していることは知られていましたが、それらのがん遺伝子の正常な組織における本来の機能については明らかになっておらず、多くのがん遺伝子が、ほ乳類にとって本当に必要なものであるのかさえ不明でした。そのため、私の研究室では、HGF(肝細胞増殖因子)遺伝子や、ヒト白血病の発症に関与するがん遺伝子であるAML1(RUNX1)遺伝子と、そのパートナーであるPEBP2b(CBFb)遺伝子など、数多くのがん遺伝子のノックアウトマウスを作製し、その機能を明らかにすることに成功しました。その後、2013年までに、私の研究室においては、ジーンターゲティング法を用いて、120種の遺伝子を標的として、146種類の変異マウスが作製されました。

 

APC遺伝子との出会い

 さて、数多くのがん遺伝子のノックアウトをしながら、私は、やはり、ノックアウトすべきがん抑制遺伝子が現れるのを待っていました。即ち、がんの発生と進展におけるがん関連遺伝子の役割を考えるとき、やはり、がん抑制遺伝子の機能こそ、ジーンターゲティングにより、その機能を消失させることで明らかになるはずであり、さらにマウス個体内での発がん過程の再現に繋がるはずだからです。わたしが帰国した時期の癌研究所では、中村祐輔生化学部長の研究室において、遺伝性がん患者のゲノム解析で世界をリードする成果が次々と得られていました。そして、わたしが帰国して数ヶ月が経った頃、家族性大腸腺腫症の原因遺伝子であるApc遺伝子が、ついに単離・同定されました。この遺伝子の情報を中村先生から頂いた私は、直ちにApc遺伝子のノックアウトマウスの作製を行い、成功しました。すると、そのノックアウトマウスの消化管内では多数の腺腫の発生が観察されました。個体内での腫瘍の発生が再現されたのです。ただ、このFAPモデルマウスでは、ヒト患者さんの場合と異なり、腺腫は小腸に発生し、大腸では殆ど腺腫の発生が認められませんでした。また、そのホモ接合体、すなわち、体中のApc遺伝子が全て無くなったマウスは、発生の途中に異常を来して、死んでしまうことも判りました。こうして、確かにApc遺伝子はマウスの発生に重要であることはわかりましたが、やはり、大腸における腺腫の発生との関係は不明なままでした。その後、Tsc1Tsc2遺伝子やPatched遺伝子など、多くのがん抑制遺伝子のノックアウトマウスを作製しましたが、がん抑制遺伝子は生体の発生に重要な役割を果たしており、それらが完全に欠失したマウスは、生まれる前に死んでしまうため、がんの発生が期待される組織や細胞での発がんは観察出来ません。Apc遺伝子の機能に関して重要な知見は得られたものの、目的とする大腸がん発がんモデルを樹立することは出来ませんでした。

 

■世界で初めて生体内での発がんプロセス再現に成功

 そこで私は、その年に免疫関連の遺伝子で初めて成功が報告されたコンディショナル・ターゲティングを用いて、マウスの大腸発がんモデルを作製することを考えました。Creという組替え酵素に特異的に認識されるLoxPというDNA配列を、Apc遺伝子の両脇に入れておき、Apcを不活化したい組織でCre酵素を発現させれば、その組織でのみApc遺伝子が消失するはずです。このコンディショナル・ターゲティングシステムを作り上げ、マウスの大腸上皮でのみ、Apc遺伝子を不活化してみたところ、不活化の数週後には、マウスの大腸内に腺腫が発生して来ることが分かりました。これを放置しておくと、その一部は腺がんへと進展することも判りました。この研究成果は、世界で初めて、発がんの母地となるべき組織におけるがん抑制遺伝子の機能を、個体内で明らかにする成果となりました。加えて、このシステムを用いることで初めて、遺伝子変異の導入から発がんまでのプロセスを、個体内で詳細に解析することが可能となりました。その後、私の研究室では、このシステムを用いて、多くのがん抑制遺伝子の機能解析を行いましたが、現在も、がん抑制遺伝子を始めとする多くのがん抑制遺伝子機能の解析には、世界中でこのシステムが用いられています。

 

■吉田富三先生と私

  最後に、吉田富三先生と私自身との、個人的なつながりについて少しだけお話しさせて頂きます。その始まりは、私が生まれる前、1947年頃にまで遡ります。現在、アカデミアにおける吉田富三先生といえば、東京大学医学部の病理学教授あるいは医学部長というイメージが強いと思いますが、吉田先生は東大の教授になられる前の10年間、仙台で東北大学医学部の病理学教授を務められています。私の父、野田起一郎は、終戦直後に東北大学の医学部を卒業していますが、卒業後、そのまま病理学教室に入り、助手として4年間の研究生活を送りました。当時、病理学教室にはお二人の教授がいらっしゃったようですが、私の父は吉田先生にもご指導を頂いたとのことで、私は子供の頃から、吉田先生のお話を父から聞かされて育ちました。これが吉田先生と私の最初のご縁となります。

 

■吉田富三先生の墓前での動物慰霊祭

 その後、40年以上の年月を経て、わたしは癌研究所の細胞生物部長に着任することとなりました。その着任直後、当時、化学療法センターの基礎研究部長を兼任されていた東大分生研の鶴尾隆先生が、私の部長室を尋ねて来られました。鶴尾先生は、お会いするや否や、わたしのノックアウトマウスを用いたがん研究の成果を大変に褒めて下さり、今後もおおいに期待していると言って下さったのですが、訪問の主目的は、その後の会話で判ることになります。鶴尾先生が言われるには、「癌研では毎年、動物慰霊祭を行っているが、これまでは自分が担当者として開催して来た。しかし、自分が考えるに、君ほど動物慰霊祭を主宰するのに相応しい研究者は居ない。これからは君がやりなさい。」とのことでした。もちろんお断りできる訳も無く、お引き受けすることとなりましたが、それから現在まで25年間にわたって、私は毎年、動物慰霊祭を主宰しています。この慰霊祭そのものは、ごく小規模なものですが、実は、この慰霊祭が、いまも吉田先生とがん研の研究者とを強く結びつけているのです。吉田先生の墓所は、当時の癌研からほど近い文京区の吉祥寺にあります。癌研の動物慰霊祭は毎年、その吉田先生の墓前で行うのが恒例となっています。その理由は、吉田先生のお墓の傍らに、「シロネズミの碑」が建てられているからです。この碑は、吉田先生が、がん研究に貢献してきた実験動物を慰霊するために建てられたものです。小さな碑の傍らの石版には吉田先生の直筆での「シロネズミへの感謝の言葉」が刻まれています。がん研では、毎年6月に、多くの研究者がこの碑の前に集まり、実験動物の慰霊を行いますが、その際には、もちろん吉田先生のお墓にもお参りして、改めて、吉田先生の人となりとその素晴らしい業績を偲ぶこととしています。この25年間、一度も休むことなく動物慰霊祭を開催して来ましたので、わたしは、毎年6月には必ずシロネズミの碑と吉田先生のお墓を磨いてきたことになります。お近くにお出での際には、是非、吉田先生のお墓に寄り添うように建てられている、このシロネズミの碑をご覧頂ければと思います。

 

■がん研究所所長として

 そして吉田先生との最後のご縁となりますが、私も東北大学医学部での8年間の教授生活の後に、2016年、有明に移転したがん研究所の所長に就任致しました。吉田先生は第6代の癌研究所所長であり、わたしは第10代のがん研究所(有明移転時に、ひらがなの「がん」を用いることとしました)所長となります。吉田先生には及ぶべくもありませんが、今回の受賞を期に、がん研からの優れた研究成果の創出と今後のがん研究を牽引する若手研究者の育成に、一層、努力をして行きたいと考えておりますので、今後ともご支援のほど、宜しくお願い致します。この度は、まことに有り難うございました。